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▲ 木浦共生園(写真=李勝敏特派員) |
[LOCAL世界 = 李勝敏特派員] 韓国西南端には、儒達山と笠巖山が夫婦のように仲良く向き合う美しい港町の木浦(モッポ)がある。 絵のように美しい島々を見下ろす儒達山(ユダルサン)の丘に木浦共生園がある。ここには事情の深い梅の木と千羽鶴の物語が伝わっている。いったいどんな事情だろうか。物語は22年前にさかのぼる。
木浦共生園に電話ベルの音が鳴った。孤児たちの世話をしていた尹綠(ユンミドリ)園長が電話を取った。見知らぬ声が聞こえて来た。
「田内千鶴子さんの献身的な人生に非常に感動しました。これからも頑張ってください。木浦共生園にぜひ訪れたいです。」
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▲ 儒達山(ユダルサン)の丘にある木浦共生園 全景 |
田内千鶴子(韓国名尹鶴子)の孫娘、尹園長が、日本首相から直接電話を受けたのだ。とても驚きありがたかった。当時、小渕恵三首相は、テレビで田内千鶴子のドキュメンタリーを見ていた。彼女の長男の尹基、孫娘の尹緑に至るまで3代にわたって孤児を育てる感動的な人生を描いた特集放送だった。
韓国孤児の母と呼ばれた日本人女性、田内千鶴子。彼女は木浦共生園園長だった尹致浩(ユン・チホ)と結婚し、孤児たちの為に生涯を捧げた。いつも韓服を着て韓国語で孤児たちの世話をし、孤児たちを自分の子供として育てた彼女が息を引き取る直前、病床で「梅干しを食べたい」と言うのを見た小渕首相は、自分の故郷群馬県の梅の木を送ることを約束した。
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▲ 孤児院でオルガンを演奏しながら歌を教えている田内千鶴子 |
小渕首相は2000年3月、梅の木20本を送った後、4月に脳梗塞で倒れた。このニュースを聞いた共生園の尹園長は、孤児院の子供たちと一緒に小渕首相の健康回復を祈りながら千羽鶴を折った。
首相夫人の千鶴子さんは、病床に横たわっている夫を看護していた中、木浦共生園から送られたギフトボックスを受け取った。箱の中には健康を祈りながら丁寧に折りたたんだ千羽鶴が入っていた。
「小渕さんが送ってくれた梅の木は、田内千鶴子記念碑のそばに植えました。健康の回復を心からお祈りします。梅の木のそばで笑顔で会う日を楽しみに待っています」と、まるで今にも子供たちの声が聞こえるようだった。
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▲ 小渕恵三首相が木浦共生園贈った梅木、中には田内千鶴子さんの塔がある。 |
首相夫人の小渕千鶴子は、孤児の母、田内千鶴子と同じ名前だった。首相夫人は、感動の千羽鶴を病室のスタンドの横に飾り、日々夫の健康のために祈った。しかし、意識を失った小渕首相はそれを見る事はなかった。あれほど行きたかった共生園に行ってみることもできず、入院44日目の5月14日に息を引き取った。千羽鶴は小渕首相の遺品と共に棺の中に入れられた。
首相夫人が木浦共生園に送った手紙には、「田内様を始め、共生園の皆様は、お変わりなくお過ごしでしょうか。主人が病に倒れてからの日々、共生園の皆様が懸命に主人の回復を祈ってくださり、そして心のこもった千羽鶴をお送りくださり、心からお礼を申し上げます。病気と闘う主人を見守り、励ましてくれたあの千羽鶴は、主人の棺に納めさせていただきました。皆さまの千羽鶴が、主人を天国へと導いて行ってくれたものと信じています。
また先日は、梅の苗木が共生園に届いた際の御写真を大変嬉しく拝見しました。日本の梅の木々がしっかりと韓国の大地に根付き、大きく育っていきますことを、私も楽しみにしております。いつの日か、主人の代わりに皆さまをお訪ねし、皆さまの元気なご様子を拝見したいと思っております。その日が早く訪れますことを、心より楽しみにしております。看病とその後の日々の中で、皆さまにお礼を申し上げるのが遅くなりました。共生園が益々発展し、園児の皆様が元気に立派に成長されることを、主人も心から望んでいると思います。皆さまどうかお体を大切に、そして心を通わせながら仲良くお過ごし下さい」と書かれていた。
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▲ 梅の苗木が共生園に届いた際の写真と小渕千鶴子首相夫人の手紙 |
2008年夏、首相夫人に韓国からの一通の手紙が届いた。送り主は田内千鶴子の長男尹基。記念行事の招待状だった。その年の10月31日、木浦共生園設立80周年記念式に小渕首相夫人は、飛行機に乗って木浦共生園を訪問し出席した。
木浦は横浜のような美しい港町。共生園の孤児たちが明るい笑顔で迎え、韓国の伝統衣装でアリランの歌を歌って歓迎してくれた。共生園からは海がよく見え、陽当りの良い儒達山の丘に位置し、梅の木には紅葉が色付き美しい姿を見せていた。
小渕首相が送った梅の木20本が、いつのまにか木浦共生園で22回目の花を咲かせていた。今年は、田内千鶴子生誕110年となる年であり、尹基(故郷の家の理事長)が80歳となる年だ。尹基は、韓国で親の意志を引き継き、孤児たちのために40年を過ごし、日本に渡り高齢者の家(故郷の家)を設立し、高齢者のために生きて40年になった。父の国で40年、母の国で40年、孤児の為に40年、高齢者の為に40年を迎える特別な年である。
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▲ 長男尹基理事長が経営してる東京都江東区にある故郷の家東京. |
尹基理事長は、母生誕110周年を迎えた今年、母親が生前に念願した孤児のない世界のために「UN世界孤児の日」制定を促す行事をする予定だ。韓国孤児3000人を育てた数字に意味を置いて韓国と日本でそれぞれ3千人が木浦共生園に参加し、日韓共同で孤児の日の制定を促す計画だ。
1928年、日帝時代の韓国、大変寒かった冬、尹致浩(ユン・チホ)青年が道を歩いている中、橋の下で飢えに震えている孤児7人を発見することになる。震えている子供たちを見ながら涙を流したユンさんは、子供たちを連れて家に帰り一緒に暮らしながら、人が住んでいない木浦市儒達山の隅に入り畑を耕して手作りで孤児の家を建てることになるが、これが木浦共生園の始まりだ。
尹さんは急激に増える戦争孤児たちに、食を与え服を着させるには遥かに足りなかったが、子供たちと一緒に畑を耕して食糧の自立と教育に力を入れた。当時、木浦貞明女子高校教師だった田内千鶴子は、時間がある度に共生園に訪れ、かわいそうな子供たちのために温かい愛で奉仕した。オルガンを演奏して一緒に歌を歌い、洗濯をし、子供たちの体も洗ったりしながら1938年、孤児の父親尹致浩と結婚し、孤児たちの母親となった。
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▲ 尹致浩園長が孤児たちと一緒に木浦市儒達山の隅に入り畑を耕して手作りで孤児の家を建てる。 |
1950年、北朝鮮軍が戦争を起こして南に押し下がって来た。共産党の世の中になると、軍人、警察、宗教人たちを捕まえて、無差別処刑する時、孤児たちと木浦市民は命をかけて二人を保護してくれた。特に孤児たちは「私たちの母親、父親だ」と盾になってくれた。
戦争が終わるころには戦争孤児たちが押し寄せ、共生園には500人余りが入り、限界を超える孤児施設の劣悪さの中でも子供たちを保護して育てた。夫尹致浩が食糧を得るために家を離れ、行方不明になる不幸が重なったが、田內千鶴子は夫を待ちながら、一人で孤児のために一生を献身、3千人の孤児を育てた。
そのように国境を超越した献身的で崇高な孤児たちへの愛を実践した功労を認められ、1963年に韓国政府から、日本女性初めて文化勲章を受け、1965年には木浦市初の市民賞を受賞した。 1967年には日本政府が藍綬褒章を授与し、彼女の功績を称えた。
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▲ 韓国戦争時代の木浦共生園の孤児たち. |
孤児たちと一緒に生死の苦しみを共にした1968年の秋、彼女は過労と栄養不足で病気になり横たわる。 しかい彼女は「治療するお金があればお腹が空いた子供たちにご飯を食べさせなければならない」とし、入院を望んでいなかった。1968年10月31日、56歳になる誕生日に彼女は息を引き取った。木浦駅広場に市民3万人が集まり、彼女との別れを惜しみ悲しみで涙を流した。
尹基は母の意志を引き継いで、20年間園長を務め、渾身を尽くした。水仙花合唱団を作って日本公演を行い、日本航空(JAL)は孤児のためのアパートを寄贈し、大阪市民たちは共生園にアパートと食堂を新築してくれた。また、日本の高知県住民は木浦から石を持ってきて、田内千鶴子の故郷に誕生記念碑を建ててくれた。
木浦共生園が自立孤児院として安定すると、尹基は母の国, 日本に渡った。在日韓国人高齢者の寂しい孤独死のニュースに触れ、高齢者のための老人ホーム(故郷の家)を設立する決意をして推進したが、現実は不可能だという否定的な答えだけだった。しかし様々な困難を乗り越え、現在東京、大阪、京都など5か所に設立し運営している。そんな彼は、これまでの功労を認められ、韓国政府から勳褒章、サムスングループから「湖岩賞」を受賞した。
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▲ 長男尹基理事長が経営してる故郷の家京都全景. |
3千人の孤児を育てて「韓国孤児の母」と呼ばれた田内千鶴子は、世界で初めて両国から勲章を受けた。その後も息子と孫娘まで3代にわたり涙の努力で孤児たちのために献身しており、田内千鶴子の意志を続けている。共生園はこれまで約5千人の孤児たちを育て、孤児の聖地であり、生きている文化遺跡であり、社会福祉博物館である。
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